古田織部美術館について

ごあいさつ  古田織部(1543~1615)は諱(いみな)を重然(しげなり)といい、利休亡き後、「天下一」と称された武将茶人です。
 織部は、武名こそあまりないものの、茶の湯・連歌に秀で、信長横死後、太閤秀吉の御咄衆(御伽衆)となり、子の秀頼、徳川家康・秀忠父子に仕えました。
 利休の茶の湯を継承しつつ、茶道具の製作・建築・作庭など多岐にわたって活躍し、それらは「織部好(ごのみ)」といわれて慶長年間(1596~1615)に爆発的な流行をみせ、織部が亡くなった後の元和・寛永期(1615~1644)まで続きました。
 「織部」あるいは「織部焼」というとどうしても、緑釉がかけられた向付や、不思議な絵が施された沓茶碗を想起されるかもしれません。しかし、激動の桃山時代後期慶長年間の茶の湯をリードした古田織部好みの茶道具はそれにとどまるものではありません。その作品は、とても400年前に作られたとは思えないほど前衛的・刺激的で、現代人をも驚愕せしめます。
 これらを、より多くの方々に知っていただきたいとの思いから、当館開設に至った次第です。

 小さな美術館ではありますが、少しでも“古田織部の世界”を味わっていただければ幸いです。
 当館が真の古田織部の姿を伝え、また、茶の湯の一助となることを願ってやみません。

古田織部美術館 館 長 宮下 玄覇
古田織部美術館情報  2014年4月、古田織部の400年遠忌に合わせて、古田織部美術館を開設いたしました。
 織部自作の茶杓、書状、織部好みの茶道具、千利休・豊臣秀吉ら織部周辺の人々にゆかりの品などを、年3回の企画展でご紹介いたします。
 なお、館名である古田織部美術館の文字は、臨済宗相国寺派管長 有馬賴底猊下に揮毫していただきました。

>開催中の展覧会情報

武将茶人 古田織部  茶の湯の最盛期であった天正十九年(一五九一)、堺の一茶人から天下人豊臣秀吉の側近にまで登り詰めた千利休は、秀吉に切腹させられて世を去った。秀吉のもと、利休が天下一の茶人として活動したのは九年ほどであった。その後の豊臣家滅亡までの二十五年間、天下の茶の湯を継承発展させたのは、利休の弟子の古田織部であった。
 織部は創意に優れた尾張出身の武将茶人で、青年期より長岡藤孝(幽斎)らの文化人から薫陶を受けた弁舌巧みな人物である。利休亡き後、秀吉と織部による茶の湯は、実に八年もの間続き、現在行われている「茶の湯」は、利休と織部二人によって大成されたといっても過言ではない。
 秀吉没後、豊臣政権が大老筆頭の徳川家康によって簒奪されたように、利休の茶の湯も家康・秀忠に重く遇された織部によって発展改変され、「将軍秀忠の茶の湯の師」という権威を背景に、織部の茶の湯が一世を風靡した。それは、「へうげもの」「やきそこない」といわれた茶碗が茶席を賑わすという常軌を逸した茶の湯が、〝天下〟に認められたことを示すのである。この事象は、時代がそうさせたのではなく、織部の強烈な個性により、一時的にそうなったのである。織部の成し遂げた事績はまさに破格であった。
 織部没後、弟子の小堀遠州が、織部の武家茶の湯を受け継いだ。また、同じく弟子であった本阿弥光悦は、織部の美意識に触発されて、独自の芸術を開花させた。また、金森宗和は織部流の茶を学んで自らの茶境を開拓し、その茶風は公家の間に伝わった。

古田織部像

博物館貸出実績

岐阜市歴史博物館
高槻市立しろあと歴史館
福井県立歴史博物館
(予定)島根県立古代出雲歴史博物館
(予定)群馬県立歴史博物館

外部サイト